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豊川稲荷境内のお地蔵さん

すすきの(札幌駅前通り南7条西4丁目)のど真ん中にある豊川稲荷です。赤い鳥居があるので神社のようですが、右下には「玉宝禅寺」とあります。

 

ここは神社なのでしょうか、お寺なのでしょうか? 

 

黄色の矢印を付した木製の説明板に『豊川稲荷札幌別院の略縁起』が記されていました。チョット長いので、全文はブログの最後に付しました。

結論から言うと、豊川稲荷は神社ではなく寺院。

信仰対象は稲荷神ではなく「豊川吒枳尼真天」(トヨカワダキニシンテン)。

吒枳尼天(荼枳尼天・荼吉尼天)は、蜜教で説く自在の通力を持つ女性夜叉神。日本では稲荷信仰と習合して稲荷神と同一視されています(『新明解 国語辞典』)。

 

左右の白塗りのお狐さんは、「金襴」の帽子と前掛けをつけていました。

階段を登ったところが「豊川稲荷別院」で、右下は「玉宝禅寺祖院」。

 

お稲荷さんというと、京都の伏見稲荷が有名で、こちらは正真正銘の神社で神道系の稲荷信仰。

一方、豊川稲荷は仏教系の稲荷信仰なのです。

 

島田 裕巳さんは、次のように述べています。

「神道と仏教とが明確に区別されるのは明治以降のことで、それ以前の稲荷信仰は典型的な神仏習合の信仰だったのである」(『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』幻冬舎新書)。

 

                  

もし、明治元年(1868)の神仏分離令が発せられなかったなら、心穏やかに暮らせる世に変わっていたかもしれません。                     

鳥居をくぐると、すぐ左側に観音さまと恵比寿大黒天。

玉宝禅寺祖院の入口には、七福神。

観音さまの向かいには、稲荷大明神がまつられていました。こちらは神道系。

大明神の左隣にたつ「薄野娼妓並水子哀悼碑」です。

 

日高産の自然石で、重量8t、高さ4m、幅2m(『札幌の碑』北海道新聞社)。

題字は堂垣内尚弘知事。

哀悼碑の説明板は、このように語っていました。

 

「薄野娼妓並水子哀悼碑」建立のいわれ

 薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の”足止め策”として薄野遊郭を置いたのが起源であります。

 その開拓を支えた遊郭の娼妓たちを供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事、堂垣内尚弘氏から碑文を頂き建立したのが、この哀悼碑であります。

昭和五十一年五月二十五日記

 薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌

碑の右前方に、14体のお地蔵さんがおたちです。

 

中央の青銅像は錫杖と宝珠を捧げ持ち、左腕に幼児1人、裳裾に幼児5人がすがりついています。

 

その両隣と後方の13体は同形の合掌姿で、それぞれ2人の幼児がすがりついていました。

 

他ではあまり見られないお姿です。

戸外におたちのお地蔵さんは石像が多く、青銅像は多くありません。

 

どのような理由で青銅像を建立したのでしょうか? 

 

とても物悲しい表情の仏さまです。

『豊川稲荷』札幌別院 略縁起

愛知県豊川市曹洞宗妙厳寺は、御本尊に、寒巌義尹禅師伝来の千手観音を安置し、鎮守として禅師御感見の善神「豊川吒枳尼真天」(トヨカワダキニシンテン)を祀る。

 この善神は通称「豊川稲荷」と呼ばれ、その起こりは、七百数十年の昔、文永元年、寒巌義尹禅師入宋求法をおえ、帰国の為御乗船の際、海上にて忽ち霊神現じ、妙相端麗にして稲穂を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨るお姿を御神示あり、禅師は深く感動せられ、帰国後示現のお姿を自ら刻み、守護神として祀られる。

 これより代々相伝せられ、東海義易禅師により豊川の地に、円福山妙厳寺を開創と共に鎮座し、東海地方の名刹となる。因に「豊川吒枳尼真天」現じ給える時の御神示の中に真言あり「唵尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶」(オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ)と申す。

之を要約すれば、”正しい戒力により、悪事災難を除き、福徳智慧を得て苦を抜いて楽となし、悲しみ転じて喜びとなすことが必ず成就する”という意味である。

 その分霊は、全国至る所に祀られており、当院は明治三十一年に別院として開創され、以来幾多の霊験を現じ今日に至る。(稲荷縁日毎月二十二日)

 尚、一階には、清田区北野にある「曹洞宗 玉宝禅寺」の祖院として、仏事全般を司っている。

   平成八年秋 大祭記念 院代 修導 記